九州の風土とマッチしたロングセラー品種ヒヨクモチ
福岡の久留米から約30分車を走らせてたどり着いた神埼市千代田町。JA佐賀の方々と一緒に私たちが訪ねていったのは、ヒヨクモチ生産者のひとり今泉啓介さんです。私たちが現地を訪れた10月中旬は、稲刈りを1〜2週間後に控えた時期。びっしり実のついた稲穂が、黄金色に輝いて風になびいています。
ヒヨクモチが生まれたのは1971年。以来、今泉さんの親世代が中心となって「ヒヨクモチの主産地といえば佐賀の神埼」と言われるほどにまで評判を高めました。佐賀の他の地域は、うるち米ともち米が半々というところが多い中、神埼ではもち米が7〜8割を占めるそうです。
「ヒヨクモチは他のもち米と比べると、背が低い”短稈(たんかん)”タイプで倒れにくいので、育てやすいんです。佐賀は台風が多くて、今年ももう2回来ましたけど倒れてない。それに粒がたくさんついて収量も見込めるのがいいですね。ただ、病害には気をつかわないといけないので、大雨と一緒に大陸からウンカが飛んでくる時期は毎年心配ですよ。」
ヒヨクモチは、お餅にすると、やや黄色みを帯びた色合いになり、柔らかく粘りも強い、という西日本の好みをよく反映しています。米の世界では、50年もの間、同じ品種が淘汰されずにつくり続けられるのは珍しいことだそうですが、いまだにヒヨクモチを超えるもち米品種は生まれていないのだとか。そのおかげもあってか、今では佐賀は、北海道、新潟に次いで、国内第3位のもち米作付面積を誇る県となっています。
産地が直面する、後継者不足のリアル
温暖な気候に恵まれた佐賀では、昔から稲と麦を二毛作で育てるのがならわし。今泉さんの田畑でも、春夏はヒヨクモチ、稲を刈り取った後の秋冬は麦を育てています。
「麦をやることで土壌がよくなるし、麦を刈った後に残るわらをそのまま田んぼにすき込んで肥料にすれば、化学肥料も減らせます。昔は、米だけじゃ食っていけないから、麦で小遣い稼ぎをするっていう意味もあったけど、今は麦はほとんど輸入でしょ。価格も下落して、経費を引いたら手元にはいくらも残らないです。それでもお金にならないからといって放置しておいたら、田んぼも荒れますしね……。」
ちょっと悲しげな表情で話す今泉さん。麦だけに限った話ではなく、ここ数年の物価の上昇に対して、農産物の価格が正当に上がっていないのは事実。需要と供給のバランスの関係から、ヒヨクモチの価格も30年来、上がるどころかむしろ下がっているといいます。でもこのままの状態が続けば、すでに後継者不足に直面している産地が、さらに先細りしてしまいます。それは、鳴海屋の生命線に関わること。私たちにできるのは、あられの販路を広げながら、持続可能な価格で長期間にわたって生産者さんたちを買い支えることです。
ヒヨクモチの伝統をつなぐため、集落で力を寄せ合う
そして、そんな厳しい状況を少しでも改善しようと、約20年前から整備が進んでいるのが集落ごとの「営農組合」です。営農組合とは、専業農家や兼業農家が集落単位で集まって、農作業に必要なトラクターや籾米の乾燥機などの機械・施設を共同利用できるようにし、農家一軒あたりの負担を減らそうという仕組み。大規模な農業法人ならいざ知らず、兼業農家や小規模な個人農家にとっては、この仕組みはなくてはならないものです。
私たちは、そんな施設のひとつである「千代田カントリーエレベーター」にお邪魔してみました。カントリーエレベーターとは、地域で採れる米、麦、大豆などの穀物の乾燥、低温貯蔵、調製、出荷までを行える大型倉庫のこと。ヒヨクモチの品質管理も、ここが大きなカギを握っています。
「ここではJAの指導のもとで、運び込まれた米をふるいにかけて粒を揃え、乾燥機にかけます。乾燥機にかける前に、どの農家さんがどの米を持ち込んだかわかるように、全部サンプルも取っているんですよ。」
そう話すのはJAから運営指導に来られている宮地隆弘さん。今泉さんとは同級生で、神埼で最初にヒヨクモチに取り組んだ人々の息子世代に当たります。
「私たちの父親世代の思いが、ここをつくったんです。父たちの世代は昭和ひと桁生まれ。当時の語り部たちがもう、どんどんいなくなっています。でも、せっかく40年50年と”ヒヨクモチといえば神埼”と言われてきたのだから、私たちがその期待に応えられるように、産地の伝統を崩さず語り継がないと。いろんな問題がある中で、”どがんしたら続けていけるのか”というのをずっと考えていますよ。」
まっすぐなまなざしに、産地としての誇りと、ヒヨクモチへの愛情を感じたのでした。
〈後篇へ続く〉