弘法大師ゆかりの土地で、地域伝来の山椒を育てる
標高600mの山間部の傾斜地にある「きとら農園」。新田さんが結婚を機に故郷・和歌山にUターン移住し、ここで山椒栽培を始めたのは2011年のこと。かつてこの辺りは、弘法大師が祈祷しながら田を開いたという言い伝えから「祈祷田(きとうだ)」と呼ばれており、それがなまって「北浦(きとら)」という地名になったとか。
そんな、知る人ぞ知る歴史的ストーリーに加え、この地にはもうひとつ興味深いエピソードがあります。それは、江戸時代末期に「ぶどう山椒」が発見されたのがこの地域だったということ。「ぶどう山椒」は一般的な山椒よりも力強い香りと辛みを持つことから、その後、有田川町一帯に栽培の輪が広がっていきました。
私たちが訪れたのは、山椒の木々にみずみずしい緑色の実が鈴なりになった7月。収穫がしやすいよう、枝が横へ横へと広がるよう剪定された木々から、丁寧な手入れの様子が伺えます。緑色の実をひと粒摘み取って口に含むと、鮮烈かつ爽やかな刺激が広がって、辛味だけではない心地よさに驚かされます。
「29歳で農園を始めるまでは、名古屋や東京でフリーターのような生活を送っていました。たまたま地元で山椒農家をやってた親戚のおじさんからすすめられたのがきっかけで、わりと軽い気持ちで山椒をやってみようと決めたんですよ。Uターンの5〜6年前から土地を探して購入し、若木も植えて準備を進めてたんですけど、その頃から値段が大暴落。ですからはじめの頃は大変でした。」
生産と加工、自分の手でできることを、少しずつ
かつては有田川町の特産品として「ぶどう山椒」がよい値で取引されていたことから、町内でこぞって山椒の木が植えられた時代がありました。しかし2000年代の前半には生産量が飽和状態になり、価格が暴落。その結果、山椒生産をやめる農家が続出しました。そこには、生産者の高齢化も深く関わっています。
「町内には山椒農家が200軒ぐらいあるんですが、今、平均年齢が80歳なんです。だから当時の価格暴落にあった人は、やめてしまったか、もしくは年金をもらいながら小遣い稼ぎ程度にやっていければいいという感じで……。僕が就農した時点で、山椒で飯を食えてる人はいなかったと思いますね。」
就農早々、思わぬピンチに見舞われた新田さんは、山椒の農閑期に桑の葉茶の生産・加工を手がけて生活の安定をはかることに。そして5年ほど前からは、山椒でも「きとら農園」ブランドで6次産業化に取り組んでいます。
「小さな電動式の石臼で、乾燥した実を粉にして道の駅やインターネットなどで販売しています。本当にいい品質のものを流通させたいと思ったし、農家だからこそそれができるな、と。自社農園発信でいろいろやり出してから、ものに対する評価がダイレクトにわかるようになったことは大きいですね。どういうところに使われて、どう喜ばれているかがわかるのは、やっぱり嬉しいです。まだ自前で加工できるのは、全収穫量の1割ほどですが、これからその割合を増やしていきたいと思っています。」
摘んだ実の房をばらしてタネを取り除いてから、果皮を乾かして挽く、という一連の作業は、まだ小規模なため手作業で行っており、手間はかかりますが、手応えは上々。鮮やかなグリーンが美しい新田さんの粉山椒は、口に含むと、鮮烈かつ爽やかな刺激が広がって、辛味だけではない心地よさに驚かされます。
「この鮮やかな緑色が、劣化していない印。この品質は農家じゃないとなかなか出せないと思います。塩と合わせてステーキや唐揚げにつけると、うまいですよ。」
独自の香味が持つ可能性に、海外のシェフも注目
皮肉なことに、かつては飽和状態にあった「ぶどう山椒」の生産量が、現在は激減。需要に生産が追いつかない事態も発生しているとか。山椒の木は、実の生産力が十分に保たれる期間が約30年程度と比較的短いため、適切に若木を植えて更新をしていく必要があるのですが、それも町内ではうまく進んでいない状況です。
「生産者が高齢化で減っていくのと同時に、鹿による獣害や温暖化の影響も深刻ですし、このままでは5年後どうなってしまうのかという危機感はあります。」
その一方で、近年は海外でも山椒の魅力が評価されており、その反応を見て山椒の新たな可能性に気づかされることもあるという新田さん。数年前、渡仏して参加したフランスのイベントにて、ヨーロッパの一流シェフに山椒を紹介した経験は、大きな糧となりました。
「生クリームやチーズなどの乳製品や、チョコレートに粉山椒を合わせてもいける、という発想をそこで教わりました。最近ではクラフトビールやハイボールに振りかける、というアレンジをされているお店もあるみたいですね。」
山椒といえば、花や葉や実が生薬・香辛料となり、木はすりこ木として使われるなど、古くから日本人の暮らしに根づいてきた作物。「山椒は捨てるところがない」と言われたのもうなずける話です。日本人が愛してきたこのおいしさを、生産者の方々とともに、多くの人に伝えていきたいーー。そんな思いを新たにした和歌山の旅でした。